2012年4月29日日曜日

フェアリイ・ランド-ポール・J. マコーリイ

フェアリイ・ランド
ポール・J. マコーリイのSF 『フェアリイ・ランド』

高校生の頃読んで、ずっともう一度読みたいと思っていたのだけれどタイトルを忘れてしまい10数年経ってしまった。昨日図書館でたまたま見つけたので一気に読みました。

リアルな活動を「ドール」と呼ばれる、遺伝子を組み替えられた肉体にチップを埋め込まれた愛玩/労働用の生き物に任せて世界の端でバーチャルな体験に傾倒していく(金を持った)人間たち、その先端を行くこれまた遺伝子操作により生まれた天才少女、人の残したリアルの世界で増えていく知性を与えられたドール・フェアリイ。なんとも魅力的な世界で主人公の、能力はあるけれどデブなハッカー天才少女を追っていく冒険譚。だと思う。

伊藤計測の『ハーモニー』は精神と肉体、どっちがデットメディアになるのかという話で、精神がデッドメディア化する方向に世界が進む物語だったけれど、『フェアリイ・ランド』では肉体のほうがデッドメディアになる方向に世界が進んでいる感じ。でも完全にそっち側に行くの?行かないの?というのがひとつのテーマになっている。人がリアルの世界から退場したとして、その後は一体どうなるのという問にもひとつの答えを出していて心地よい。分量があって読み応えもあり、語られすぎず、でも物語として綺麗にまとまっていて人に推められる一品。またであえて本当によかった。

2012年4月27日金曜日

ハーモニー

伊藤計劃のことを知ったのは、勤めている学習塾の生徒が読んでいたからだ。どんな話の流れだったか最近読んでいる本の話になり、彼は『虐殺器官 』という剣呑なタイトルを挙げた。そして本の内容よりも著者である伊藤計劃について普段見せない快活ぶりで話しだしたのだった。
その後いろいろとあって彼と合うことはなくなったのだけれど、その時の会話は妙に引っかかっていて、『虐殺器官』を手に取るまでにそう長くはかからなかった。おもしろかったので『ハーモニー 』もすぐに読んだ。

どちらも人という生き物の特性についての話であるように思う。生き物としての人のありうる一面を支配的にしてみたら世界はこうなるだろう、というのがあって、そこに向かうプロセスを説得力をもって描くことを物語にした感じがする。なので物語の完成度はとても高い。若干、登場人物が話にかっちりはまりすぎていて物語の外側に広がりがない感じはするけれど、読んでいて文句なしに楽しめる。

ハーモニー 』では人の意識についての話がメインテーマになっている。先日読んだ新井素子の『チグリスとユーフラテス』の生きる意味というのがテーマになっていた。たまたまだけれど、非常に近いものだよね。人の意識は自我とも言い換えられると思うけど、生きる意味を問うのは自我があるからだろう。「わたしは、なんのために生きているの」という問だもの。自我がなければ生きる意味に悩むこともない。夢を抱くのも自我のおかげ。そういう事を思うと、間違いなく自我の存在が社会の発展をドライブしたはず。そしてより発展した社会の人のほうが生き残りやすかったことがあってひとは強い自我を持つようになったのかもしれない。今となってはその人達が地球規模で広がったわけだけれども、自我はこの先ひとをどっちへつれていくのだろうね。でも、いまのように、いろんな判断を人に任せてしまう風潮がどんどん進んでいったら、一部の人達の間では、自我なんていずれ自然消滅してしまうかもしれないとも思うよ。そっちの方が生き残りやすいかもしれないもの。

2012年4月26日木曜日

生きる意味と生きる目的の話:チグリスとユーフラテス


この本を初めて読んだのは中学生か高校生の頃だったと思う。まだ僕が北海道に住んでいた頃だ。SF大賞を取ったとかで、父か母が図書館から借りてきたものを読んだのだった。最近、人のブクログ本棚を眺めていて目に入って、すっごく気持ち悪くておもしろかった、という印象だけが蘇ったので、気になって10数年ぶりに読んでみた。

ある星で滅び行く人類という事実を持って、それまでのその星の人類の所業の無意味さを問う、というのが基本的な物語の構造になっている。

14,5歳の頃の僕はこれを読んでどんなことを思ったんだろう。今となっては全く思い出せないけれど、記憶に残っていたのが「すんごく気持ち悪くて面白かった」という印象だけっだったのだから、人生の意味、とかいったことはあんまり考えなかったのかもしれない。

でも今回読んで、そういう事を考えたのだ。今日も読み返しながら午前中一杯そのことを考えていたし、たまたま、顔を合わせた人に意見を求めたりもした。

思ったのは、生きる意味と生きる目的を一緒にしてはいけないよということ。

僕は、生きる目的なんてものは、ない、と思う。目的をもって生まれてきたなんて、哀れな生き物、と風の谷の誰かが言っていたような気がするけれど、そんな生き物はいないと思う。家畜も細菌兵器も兵器として造られた粘菌も、それら自身がそういった目的をもって生きているわけではない。だいたい生きているものは、総じて死ぬ。かたちあるものはいずれ壊れる。僕もそこらの猫も岩も樹も大して変わらない。石ころが自ら目的をもって存在しているようには僕にはちょっと思えない。

でも生きる意味ってのはあると思っている。ひとことで言えば多様性と相互作用。ひびきあうのが生き物だと風の谷の娘が言っていたように。もともと、同じ言葉や行動であってもその意味っていうのは時代や文化、状況などの背景によって異なる。意味そのものが、ある特定の状況にくっついて生み出されるテンポラリーなものに思われる。
僕が居ることできみが何かを想う。そこに石があったことで誰かが何かを思いつく。僕らの存在が常にユニークな状況を産み出して、これまでにない意味を生み出している。だからそこにいるだけできっと意味があるんだよと思う。というか信じている。

人間は近い将来滅びるかもしれない。そうでなくともいつか太陽が死ねば恒星間移住でもしていない限り全滅だろう。でももしかしたら人間がいろいろやらかしたおかげで変わった元素構成なんかが、ばらまかれた先の何処かで何かに影響をあたえるかもしれないよ。




2012年4月17日火曜日

GZ-5もらったので塗ったりしたよ!

 
ともだちが、多肉植物分けたげるよ、というので遊びに行ったら、どういう流れなのか小さなキーボードをもらいました。

ほーんとに小さいけど楽器なんか久しぶりに持ったので音が出るだけで嬉しくって、とりあえずACアダプターを買ってきました。アマゾンのよりも、ヨドバシAKIBAのほうが安く売っていましたよ。

ちょっと調べてみたらこれはカシオのGZ-5といってキーボードではなくって音源内蔵したMIDIコントローラっていうものらしく、MBAにつなぐとGarageBandでいろんな音を鳴らせるらしいのでMIDI-USB I/Fも買ってしまいました。楽しい!

ただ色がいまいちだったので、ばらして、家にあったラッカーで赤く染めてみました。下処理も仕上げもしていないけどきれいな赤になって満足。