2013年1月22日に時間堂のテヘランでロリータを読むを観にいったことにまつわるメモ。
原作はアザール・ナフィーシーによるベストセラー本『テヘランでロリータを読む』、台本はオノマリコさんの時間堂の演劇です。
原作の『テヘランでロリータを読む』は読んだこともなく、ナボコフの『ロリータ』も未読です。22日に舞台を観に行く前に2回、ワークインプログレスという公開稽古を観に行ききました。
その上でどんな話しかまとめておくと、1995年1996年のイラン・イスラム共和国を主舞台に同じ文学の「木曜日のクラス」に出ている7人の女性が『ロリータ』を読んだりイスラム共和国に反発したり色々してくお話。
設定の世界が自分の現状と結構遠いところにあるのと、短い場面を積み重ねていくスタイルのためかそこまで物語に没頭できませんでした。といっても2時間ずっと退屈することはなかったですし集中力が切れることもなかったです。
場面の切り替え、特に「木曜日のクラス」で女性たちがおしゃべりしている場面と、たぶん『ロリータ』の登場人物であるハンバート・ハンバートとの対話を通してそれぞれの登場人物の内面を描く場面の切り替えが面白かったです。
それと、姿の出てこない先生の存在も面白い。先生に話しかけたり、先生と会話しているような場面は多々あるのですけれど、人として出てこない分その存在感が否応にも増します。原作でどんな風に書かれているのか気になります。
そういう構成のせいで、先生に対してハンバート・ハンバートが言葉をなげかけている場面の特殊性が際立ちました。他の登場人物とハンバート・ハンバートの対話と同じく、先生の内面の葛藤を表しているんでしょうか。だとするとただ出てこないだけで先生も普通の人間なんだろうと安心します。でも先生が出てこないので、他の登場人物の先生への疑念をハンバート・ハンバートが代弁しているんだろうかなどと考えてしまいます。
前者だといいなあ。前者だとみんなそれぞれに一歩踏み出す話て感じですっと落ちる。立ちどまったり、回り道しながらでも、さんさん歩いて行けばいいと思う。
後者だと先生が不気味すぎてよくわからないや。
役者さんではヒザイさんと原西さんと長瀬さんによく目が行きました。何故かはよくわからないです。物語性に惹かれているのか、キャラクターなのか、見た目なのか、演じ方なのか、人間なのかよくわからない。切り分けられるものなのかなあ。
あと、ペアになっている衣装がすごく可愛かったです。
購買にあった蝶々のついたTシャツなどのグッズも素敵でした。イランに関するペーパーとか相関図とかも渡してくれて親切。他にも開演までのあいだ、舞台に蝶のカタチのライトが落ちていたりとか、割チケとか、ズラして折られたチラシとか、細かいところがいちいち素敵だと思う。開演前の世莉さんのイランの話も面白かったです。
ワークインプログレスを観に行って面白かったのは、なくなってる場面があったりテンションが全然違ったりとかの稽古の時と本番の差もあったけれど、一番ははじめに観に行った時にやっていた、ペアになって感じてることを口に出して好きなコトやるっていう練習をみれたこと。
あれ、やってみたいなって思います。ここのところ感情の通るパイプが詰まりかけてて身体と感情が上手くつながってない気がするので。感情とかってすごく身体的なものなのかなって練習しているのを見て思ったのが収穫。
せっかくなので原作と『ロリータ』も読もう。
テヘランでロリータを読む
ロリータ
演劇を普段見ることはほぼないのですが、時間堂さんにはなんとなく縁があってたまに思い立って観に行きます。といっても実際舞台を観に行ったのは今回の『テヘランでロリータを読む』と、随分前に王子で観た『月並みなはなし』の2つだけ。
『月並みなはなし』を観たときは結構衝撃的で、今も雨森スゥさんが恒星の名前を滔々と発声している場面など、いくつかの場面が頭のなかにこびりついています。
それが演劇って言うものから受けた衝撃なのか、物語なのか、時間堂からなのかは、他の演劇を見に行くわけでもないのでわかりませんが、あの時感動したから今もなんとなく時間堂を追っているのだろうと思います。
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