以前、富田伊織さんの透明標本を読んで、生き物の死体の骨だけを染めぬいた標本の不自然さと、自然の造形の美しさに強く惹きつけられたのですが、彼の別の本がたまたま目に入ったので読んでみました。
透明な沈黙は富田伊織さんの透明標本の写真に、哲学者ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉を載せた体裁をとっています。
正直に言ってこの2つを併せた意図は僕にはさっぱりわかりませんでした。
でも2つの要素はそれぞれに、力強く訴えてくるものを持っていて、併せた意図がわからなくとも十分に楽しむことができました。
透明標本の写真は変わらず美しくて、こればっかりは見てもらわなければ伝わらないとおもいます。見るたびに色々と考えさせられるのですが、いつも最終的に思考が行き着くのは、ヒトの透明標本をみても、こんなに美しく思うのだろうかというところです。ハツカネズミの標本よりも魚類や爬虫類の標本の方が僕にとっては綺麗に見えるのは、単にその造形が好きなのかもしれないし、自分から遠い物のほうが冷静に観察できるからなのかもしれません。ヒトの標本を見たときどんな気持ちになるのかで、自分の物事に対する視線の向け方がちょっとわかるのではないかと思うと、確かめたくてたまりません。
世界の何処かにあるのでしょうか。人間の透明標本。数年前に人体大解剖展というのもやっていたし条件が揃えば倫理的な問題はクリアできると思いますが。あるのなら見てみたいし、無いのなら僕が死んだ時にでも作ったりしてくれないかなと。
富田伊織さんの透明標本は7/31まで展示もやっているようです。
ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉を読んだのは、無意識に何処かで見かけていたかもしれないのを除けば、はじめてだと思います。
この本は『草稿1914-1916』『哲学探究』『反哲学的断章』『哲学宗教日記』『論理哲学論考』からウィトゲンシュタインの言葉を抜粋して構成されています。作品順であったり、時代順といったような整列は特に見られません。
並べ方もあると思いますが、なにかの真理を端的に表したような純粋な言葉と、誰もが悩んでいる時や落ち込んだ時に考えるような人間っぽい問いが入り交じっていておもしろいです。いくつか気に入ったフレーズもあったしまとまったものを読んでみようとおもいます。それに出会えただけでもこの本は当たりでした。
虚栄心を捨て去りたい、と私が言うとき、
またもやそれをたんなる虚栄心から
言おうとしているのでないとは言い切れない。
私は虚栄心が強い。
そして私の虚栄心が強い限り、
より善くなりたいという私の願望も虚栄心に満ちている。
そんなとき私は、自分の気に入っている
虚栄心のない過去の誰々のようになりたいと思うのだが、
すでに心の中で虚栄心を「捨て去る」ことから
得られそうな利益を計算しているのだ。
『哲学宗教日記』1931年11月15日
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